スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

常識は変るので

いつも思ってはいるんですよ。

時代により、文化により「常識」は変るんだから、今の自分の「常識」で、何かをはかってはいけない、と。
思ってはいるけど、思っていても難しい。

例えば、「文化が違うだけだ」とわかってても、「○○人は……」と言いたくなるでしょ。

とはいえ、宗教の違う国の、リンチ殺人記事などを読むと、
「野蛮だ!!」
と言いたくなりますけどねぇ……。
でも多分、彼らにとってそれは、「常識の範囲内」なんだろうな、とも……思いたくねぇなぁ(^^ゞ

常識を語ることは難しいです。

そしてその「常識」が違うからこそ、古書を読むのは難しい。
本当~に難しい。

私が読むのなんか、文庫本で手に入るような古書ですから、いろいろな学者さんに研究されていて、誤解のないように脚注がついてるんで、まぁまだ間違いづらいんですが、それでも研究が進むと、それまでは「こういう解釈だろう」としていたことがガラリと変ったり。

例えば、有名な平中物語に登場する侍従の君は、かなり勝気でトンチの効く、でもちょっと怖い女性です。

現在ではこの侍従の君は、藤原時平がその伯父である国経から奪った女であるということになっているようです。
この女性、むっちゃくちゃな美女ってことで、時平に目をつけられるわけですが、なんせ伯父の正妻です。
夜這いに行くわけにもいきません。

でもこの時代、時平は大いに権勢をふるってまして、それに引き換え国経はしょぼくれたおじいさまでした。
ってことで、時平はいろいろなお土産をもって国経の家を訪れます。
国経にしてみれば、有名人で権力もある甥が自分なんかの家にきてくれた~ってことでソワソワ大騒ぎしながら用意をして待ってるわけですね。

時平は、国経の用意したご馳走を食べ、おおいにお世辞なんかも言いながら楽しんだ後、
「それでは帰りますが、この家にある一番素晴らしい宝物をお土産にいただきたいですな」
と言いだすわけでございます。

……かくて、国経自慢の美人妻は、時平の侍従の君になったのでございました。

国経の奥さんが、平中物語の侍従の君だと知ってみれば、案外彼女も面白がってたんでしょうと思いますよね?
でも、それを知らない人がこの話を見ると……。

谷崎の「少将滋幹の母」では、この女性をそりゃ~儚げに美しく、綺麗きれ~に描いています。
私はこの短編小説が、谷崎の小説の中で一番好きだったので、侍従の君=滋幹の母と知ったときはガックリ落ち込みましたとも。

「うんこ喰わせた女かよ」
って(笑)

まぁそういうわけで、その当時のことについて知らなければ、文学作品を読んでもいろいろ誤解をしてしまうんですね~。
あぁ、怖いわぁ。

さて。
昨日は、池田弥三郎さんの「性の民俗誌」を読み返してました。
作者は、折口信夫さんの教え子で非常にリベラルな感覚の方だ……と私は思ってます。
だから、読んでいてしんどくならないのが嬉しい(#^.^#)

この本は再読なんですが、忘れてることが多いですね(^^ゞ
「遊女の発生」というタイトルのエッセイでは、「神に仕えた女、神をまつる女たちは、その信仰の宣布のために、諸国を遊行する。これがうかれめ(遊女)である」と書かれてました。

私が「歩き巫女は多分春もひさいだんだろうな」と考える元はこれかもしれません。

そんでもってこの本を読んでいると、「性行為とはなんぞや?」とまたもや思わずにいられなくなります。

現代の私たちにとって、性交はとりもなおさず愛と直結しています。
好きでもない異性と簡単に性交するような人は、尊敬されないですよね。

もちろん私は現代の人間ですから、その感覚を持ってますが、その目でもって古典文学を見ると、どいつもこいつも尊敬できねぇって話しになっちゃう(^^ゞ

例えば、源氏が目をつけた女性のところに忍びこむため、その女房に手引きを頼むでしょ?
女房を味方につけるため、どうしたと思います?

珍しいものをあげるとかそういうこともあったと思うんですが、橋本治の「窯変」では、
「女房と寝て、味方につけた」
と書いてありました。

橋本治は小説家ですが、東大の国文科を出た人ですから、そのあたりの考証は、無茶ではないと思う。

「ハンサムな人気者が私を抱いてくれたら、私のご主人さまを売りますわ、うふっ♪」
とかいうお手伝いさんがいたとしたら、誰が彼女を雇いたいと思うでござんしょうか。

それに源氏に忍びこんでこられた美女姫としてもですね。
「あなたに会いたくて、あなたの女房と性交してきましたっ!」
とかいう男に、
「嬉しい♪そこまで私のことを思ってくださるなんて」
という感情を抱……けます?????

「馬鹿にしとんのか!!!け~れ、け~~~~~~~れ!!!!!!!」
と追い出しますよね、現代の女性なら、多分(^^ゞ

でも当時の女性たちはそれを受け入れていたらしい。
ということはつまり、「性交=愛」ではなかったってことだと思います。

それじゃなんなの?
なんなのよ!!!

つぅことで、なんとか答えになりそうなのが、池田氏の唱える、
「誰にも体を許さない女」
と、
「誰とでも寝る女」
は、表裏一体だという説です。

池田氏曰く、女は生まれながらにして、神の嫁だったと。
「月経」は本来ケガレではなく、「神の嫁になる資格を得る」ための重要なものであった。
(ミヤズヒメがヤマトタケルの妻問を受けたとき月経中だったのは、彼女が神の嫁たる資格を持つことを意味していたとも言えるわけですね)

だから女は誰も、「人間の男」には体を許さず、反対に「神」に対しては、寝てようが用便中だろうがかまわずいつも体を開かなければならなかった。

この「誰にも体を許さない」の面が強調されると「一生不犯の女」になり、「いつでもどこでも体を開く」の面が強調されると「誰とでも寝るうかれ女」になる。

そういうわけです。

ここで、「神たる資格を持つ男」とはどういう人かという話になってきます。

「客人」=「まれびと」は、神であろうと。

となるとですね。
遊女=神の嫁=巫女
というわけで、遊女もやっぱり神聖なる存在だということになるんですよね~……。

つまり、性交というのは結局、「もてなしの一部」ってことですよ。
相手を喜ばせようとするときに差し出すものの一つ。

だから「誰とでも寝る女」も、現代ほどはインモラルに捉えられてなかったんじゃないかと思います。

私は現代の人間ですから、それを「別に不道徳なことではない」とは思えません。
というか、「性の営みは愛する人との間でのみ営むもの」という感覚は、人類にとって「進化」だと思ってます。

けどもね。
「誰にも体を許さない女」が「つつましい女」、ひいては「理想的な女」……という考えには弊害もあるよなと考えたり考えなかったり……。

つまり、男性が一方的にそれを求める場合は、思いっきり害があると思うんですよ。
自分たちは好き放題やりたいくせに、女にだけそれを求める場合、自分の性欲は満たしたいけど、自分の妻にする人は「誰にも体を許してない女」を求めるわけですから、どっかで「はけ口」が必要となってきます。
「はけ口」を作るくせに、その「はけ口」を「つつましくない女」「妻としては理想的ではない女」と見るわけで、サイテーな話ですよね。

それは性的暴力にもつながると思うし。

今は、「男も女も、パートナーを大切にすべきである」という感覚が主流になってきています。
参考になるかどうかは別として、YAHOOニュースのコメント欄を見る限り、芸能人の浮気についてのニュースでは、その芸能人がどれほど実力のある人でも、必ず、
「サイテー」
「嫌いになった」
というコメントで埋め尽くされます。

これがどんどん「常識」になったとしたら。
ほんの20年前の日本は、とてつもなく不道徳と感じられるでしょうね(笑)

そして、いつの時代にいても恥じずにいられる「性的態度」ってなんなのかなと考えたとき、これは「進化」と言えるように思います。

だからといって、今の常識と違う時代の女性たちを、蔑むのもアホだ、と言いたい。

ということで、遊女について、ひいては静御前について、もちょっと掘り下げたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

のりちゃん1968

Author:のりちゃん1968
大阪生まれ、大阪育ちのおばちゃんです。
40の大台を超えて、ますますおばちゃんに磨きがかかってます。

HP:http://www.norichan.jp/
Mail:norichan★norichan.jp
(★を@に替えてください)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。