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士農工商

知りませんでした。
現在では、「士農工商」という言葉が放送禁止用語になってるんですねぇ(^^ゞ

また、ちょっとでもフィールドワークをすれば、いやそんなことせんでも、歴史に興味があれば、四民の中でもっとも下位にあるはずの商人が、実際には大きな力を持っていた……なぁんてことはご存知でしょう。

参勤交代で疲弊した各地の武士は、豪商から多大なる援助を受ける、もしくは借財をしていました。

WIKIの解説では、
士農工商の概念と実際の身分制度は大きく異なっている。江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、武士を上位にし、その下に「百姓」と「町人」を並べるものであった。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。
とありますが、ある意味、商人は、武士より力を持っていた部分もあるでしょうね。

ということで、昨日行ってきたのは、大阪泉州にある、町屋なのでした。

本当は坂越へ行く予定を組んでたんですが。
震災の後、いろいろと番狂わせが(^^ゞ

ってことで、車は西へではなく、南へ。

まず目指したのは、泉佐野にある、町屋館。
別称「旧新川家住宅」。

新川家は、醤油を商う家柄だったと言いますが、今までに拝見した町屋の中でも、とびきり豪奢だったように感じます。

例えばこの井戸。
0327_honmachi_5.jpg

でけぇ(^^ゞ

桶との比率を見ていただければ、井戸の間口が広いことを感じ取れるんじゃないでしょうか。
こんなに大きく作っても意味があるのかな(^^ゞ?

一度、中の水をすべて出し、洗おうかという話もあったそうですが、汲んでも汲んでも底が見えないんで諦めた……と、管理人さんはおっしゃってました。

中が豪華なのは見ての通りですが、興味深いのは、ここが、「超リッチな商人の家」であることかもしれません。

例えば、屋根を見てください。
0327_honmachi_4.jpg

これは、「錣屋根」と呼ばれる作り方だそうです。

「錣」というのは、兜の下からでている部分……って言ったらわかりますかねぇ?
えっと、兜は頭を守るものですから、頭部分の「ボウル」は頑丈に作られていますよね?
だけど、これだけじゃ、後ろ頭や首を保護できません。
そのために、「ボウル」部分から、垂れさがった板状のものがあるでしょう?
あれが「錣」です。

ここ新川家の屋根は、上下二段になっていることがおわかりいただけると思います。
横から見ると、角度も微妙に違っていることに気付きます。
つまり、下段を「錣」に見立てて、「錣屋根」と呼ぶわけですね。

が、なぜわざわざこんな風に屋根を作るんでしょう?
装飾のため?
もちろんそれもあるでしょうが、もっと、実利的な理由があるようです。

四民制度は、絵にかいた餅であり、実態はそれほど厳しくなかった。
そうは言っても、建前上は、いろいろな制限があったらしいんです。

一つ。
商家は四間(よんま)以上の部屋が存在してはいけない。

一つ。
屋根の幅は三間(さんげん)以上あってはいけない。
など。

つまり、屋根の幅を三間に抑えるために、二段に作るわけですね。

そして下段の屋根を、
「これは『屋根』じゃあござんせん。『軒』でございますだ、お代官様」
と言い張った……らしいです。

いや~、大阪商人って、たくましゅうござんすねぇ(^^ゞ

四間の方も、
「ほたら、四間やったらええんやな?」
てなわけで、一部屋一部屋が結構でかい(笑)

0327_honmachi_2.jpg

しかも、「食い違い四間取り」という間取りになっているようで。
同じ四間でも、整然と「田」の形に作るより、互い違いに作る方が、全体的な面積は広くなりますよね?

管理人さんに寄れば、この町ができたのは、遅くても室町時代。
もしかしたら縄文時代からこのあたりは、「栄えた町」だったかもしれないとおっしゃります。

泉佐野の近くには貝塚で有名な貝塚市がありますから、それは充分あり得る話だと思います。

私は古い町並みを見るのが好きなんですが、その多くは、環濠集落だったり、寺内町だったりと、町は最初から「町」として作られていたように思うんです。

その「町」は当然、地の利が良い場所に作られますし、当初から、外敵から守られるような工夫がしてあります。
環濠はその一つ。
その他、道を曲がりくねらせ、一直線に攻め込まれないように工夫がされています。

ここ泉佐野の「さの町場」の道もかな~り曲がりくねっていましたから、当然そういう理由からなんだと思ってました。

こんな感じ↓↓↓
0327_honmachi_1.jpg



が。

違うんですって。

「さの町場」は、自然発生的に生まれた町で、少しずつ広がって行ったが故に計画性がなく、その結果道が曲がりくねってしまったんだそうで。

家の壁まで曲がっているのは、
「とにかく道のギリギリのところまで壁を広げ、少しでも大きな家を建てようとしたから」
なんだとか(^^ゞ

なんつぅか、かんつぅか。
いやはや、逞しい(笑)

そんなわけで、町の精神的リーダーにあたるお寺なんかも特にない。

……なんというか、少し不思議な町なのです。

でも確かに、この町が富み栄える理由はわかります。
ここから徒歩5分ほどで、泉佐野漁港があり、今でもうまい魚が水揚げされます。

昔からこの町には、海外の珍しいものが運ばれてきたのでしょうね。

だから、この町の商人は、かなり羽振りが良かったんだとかで。

0327_honmachi_3.jpg

これは江戸時代の長者番付です。

右側の欄は「三津」の長者。
「三津」とは、江戸・大阪・京都のこと。

京都に「津」はないだろうと思ってしまいますが、木津川をさかのぼり、船が届いていたため「津」と考えられていたんだそうです。

泉州の長者は左側の欄。
「総田舎」……って、ちょっとあんまりじゃないの(^^ゞ??

そこの「大関」とされている飯野さん。
この町の商人です。

千石船を20隻。
富財宝は数知れず所有すると書かれています。

管理人さんによれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、船と船頭を融通したような家柄だとか。

つまり、船で財をなした人々が、この町に住んでいたということですね。

飯野家だけじゃありません。
唐金家という豪商もここにはいました。

唐金家は、大阪……現在のアメリカ村あたりの土地を丸ごと所有し、家を建てて人びとに貸出していたそうな。

「唐金」という名前から、鉄砲を作っていたとかそういう話があるか聞いてみたんですが、
「鉄砲が必要だったのは、江戸時代以前ですわなぁ。唐金の名が出るのは江戸時代なんで……」
とのこと。

残念(^^ゞ

でも、ここは和歌山とも近いですからねぇ。
鉄砲を作っていた人たちとも交流があったんじゃないのかなぁと思うんだけど。

ただこの町は、「文化的資料」としては、さほど有名ではないように思います。
私たちみたいに、「街並みを見たい」と訪ねる人も、他の地区よりは少ないみたい。
これからいろいろなことが研究され、わかっていくかもしれないですね。

ただ、ほんまに道が曲がりくねってて狭いんで、車で行きづらいからなぁ(^^ゞ
それが難点かも。

私たちはその後、泉佐野漁港青空市場でご飯を食べ、魚を買って帰ってきました。

「はまち二尾千円」
に釣られて近づいたら、店の姉ちゃんに引き寄せられ、
「このまぐろもつけて二千円にしとくで。調理もしたるやん」
とささやかれてしまい、ついつい三尾も購入。

「二人なら、刺身で食べきれるやろ」
と思ってたんですが、家に持って帰ったら、まぐろ半身でもしんどいぐらい(^^ゞ
思った以上にでかい(^^ゞ

なので、まぐろとはまちを半身ずつ。
とりあえず晩御飯に半分。
夜に半分食べました。

新鮮でうま~い(#^.^#)

この日は、ウニ一船1000円也。
ちりめんじゃこ二袋と明太子で1000円也。

を購入しましたが、ウニもまた、甘くてトロトロッ!!!

う~ん、漁港はいいねぇ(#^.^#)

この日、私の体調がイマイチだったのと、私たち二人だけじゃなく友人も一緒だったこと。
それから、町屋館でお茶会が開かれていたこと……という条件が重なって、あんまり想像力が働きませんでした。
新しいことをいろいろと教えていただいたから、想像力がついていかなかったってのもあるかも。

ってことで、さの町場。
また近いうちに再訪しようと思います。
そしてまた多分、魚を買ってきます(笑)
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のりちゃん1968

Author:のりちゃん1968
大阪生まれ、大阪育ちのおばちゃんです。
40の大台を超えて、ますますおばちゃんに磨きがかかってます。

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