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スパイ!

今朝のニュースで、「サマセット・モームはMI6のスパイであった」ということを知って、なんかもうむっちゃ興奮しております(笑)

私はそれほどスパイ映画とかに興味があるわけではなく。
ミッション・インポッシブルもテレビで放映されたのを見た程度。

なので、「スパイ」がどんなことをするのかわかってはおらず、とりあえず、WIKIを見てみました(笑)

最近寝不足のせいもあり(原因:ポケモン)、頭に入ってこないんですが、目を引いたのは、この一文。

民主主義の大国の間では映画やフィクションから窺えるイメージと実際のスパイのイメージはかなり異なる。例えば情報収集活動は、潜入や暗殺、尾行などの直接行動のみで行われるわけではない。十分な情報公開がされている国においては、基本的に情報公開の原則から、しばしばエリント、イミント、ヒューミントと並んでオシントと呼ばれる手法で、目的の情報を得られることがあるからである。

情報公開されていない国、たとえば北朝鮮なんかはこの例にあてはまらないってことか(笑)
とすると、いわゆるスパイ映画に出てきそうな機密を得るためにはオシミントはほぼ無能だな(笑)

さてさて。
「エリント、イミント、ヒューミント、オシント」
のどの言葉も初見だったので、調べてみました。

すると、エリントとはつまり、電波の傍受で情報を得る方法みたいですね。
イミントは、偵察衛星などを使った情報収集。
ヒューミントとは、重要な機密を知る人物に接触することにより、情報を得ること。
そしてオシミントとは、発信されたすべての情報を集め、分析することにより、情報を得ること。

ということみたいですね。

とすると、オシミントなんかは、普通の会社でもやってるはずですね。
「不毛地帯」では、新聞なんかの情報を集め、分析するシーンが何度も出てきました。
あ、ヒューミントもあったな。

で、ですね。
想像するに、サマセット・モームは、ヒューミントの達人だったんじゃないかなぁ……なぁんて。

とはいえ、私はモームを語れるほど、作品を読んではいません。

ただ、彼の作品の特長は、「深く鋭い人間観察」「シニカル」。
かな?

特に短編については、最後のほんの短い文章で、
「え?そういうことだったの?」
と、今までもやもやしていたものが、ぱぁっと見えてくるという快感。
ここに尽きるような気がするんですよね。

しかしこの人、「愛」については、すげぇシニカルだと思う。
「人間の本質」は、リーダーの授業で原文で読まされたんだけども、ちょっと反発を感じたかなぁ(^^ゞ

この小説に出てくるのは、三角関係を作りだす三人に男女と、語り手である「私」だったと思います。
確か。

そして三角関係の頂点にいるのが、美しく、才気あふれ、活動的なお嬢さん。
彼女はモデルもやり、執筆活動もこなし、女性としては初めての自動車をのりこなした人物でした。

そして彼女に熱心に片思いする、売れっ子作家。
「私」は、彼のことを、「雰囲気だけの小説を書く。彼の小説を喩えてみれば、額縁だけあって絵が入っていないようなものだ」と評しています。
つまり、多分ですが、人間の本質を描かない小説なんでしょう、多分。

そしてもう一人の男。
彼は貧しく、身分もなく、美しくもなく、背も低く、野卑で教養もない男です。
確か、ヒロインに仕える下僕だったはず。

ヒロインの心が誰の上にあったのかは結局わかりません。
ただ、ヒロインが肉体関係を結んでいたのは、教養がなく、野卑な男でした。

小説家はそれを知って、大変ショックを受けます。
なんせ、自分の教養が自慢の男ですから。
「彼女は教養よりも、野性を選んだ。肉体で選んだんだ!!!!!彼女がその程度の女だったなんて!!」
とかなんとか、口汚くののしったりするわけですよ。

う~ん、頭でっかちのインテリゲンチャに、とってもありがちなことですよね(笑)
力のない理屈バカよりも、単純でも正義漢のある肉体派の方がいいっていう教養女性は結構いると思うけどね。

そして、「私」は、小説家をシニカルに眺めて、こんなことを考えます。

「彼女は下僕を愛しているわけではない。そうではなく、自分自身の魂が天高く翔け上がるためには、野卑で教養のない男が必要なのではなかろうか」

みたいな。
ここらへんはあんまり同意できなかったので、はっきり覚えていませんが。

いったい、モームという作家は、「真実の愛」というようなものに対して、とても否定的です。
登場人物は「自分のために」誰かを愛します。
もちろん、「愛」というものにはそういう側面もあるでしょうが、それだけじゃないのにね。

だからモームに共感はしません。
でも、とにかく面白いんですよ。
「愛はない」という考え方の是非は別として、人間観察の目はすごく面白い。

例えば、「ホノルル」の、「愛」に対するばかにしぃっぷりはすがすがしいほどです(笑)
この短編小説の骨子は「赤毛」と似ていますが、こけにしぃっぷりは格段に上。

「命を賭けた愛」
を、とことんバカにしてます。

いや、別の目から見れば、「人間の愛が生み出す力」に、惜しみない礼賛を送ってるとも見えるのかなぁ。

あ、この小説は、紹介しちゃったらなんの妙味もないし、ごく短編ですんで、興味を持ったら読んでください。
内容に共感できるかどうかはともかく、非常に面白いです。
新潮文庫ならば、「ホノルル」「赤毛」とも同じ本に収録されてたはずです。

私はこれを読んで、「そんな『愛』ばっかじゃない」と思います。
思いますが、多分「こういう『愛』もある」んでしょう。
そしてそれはきっと、「ありふれている」ほどに。

でも、この彼のシニカルな目線が、彼のヒューミント活動の結果、身に着いたものだとしたら……。
ありそうだなぁ(^^ゞ

でもね。
人間はそんなに捨てたもんじゃないと思うんですよ、私は。

人間の行動の理由にはさまざまなものがあります。
そして、似たような行動を引き起こす原因が、まったく別のものであることもよくある。

だけど、人は自分の「原因」と同じものを他人に求めるでしょう?

例えば、町で、ある若者が、おばあさんがふうふう言いながら運ぶ重い荷物を持ってあげたとします。

それを見たある人は、「親切だなぁ」と思うでしょう。
別のある人は、「いい子ぶってやがる」と思うかもしれません。
他のある人は、「あの人はつい最近、おばあさんを亡くしたんだな。それで見知らぬおばあさんに優しくしてあげたくなったんだ」と自分の境遇と重ね、涙するかも。
そしてまた、「あの若者はうまいことしてあの荷物を盗む気だな」なんて推測する人もいるかも??

若者の本心がどこにあるのか、それは若者の心を覗いてみないとわかりません。
でも人は、自分の経験と照らし合わせ、勝手に若者の心を憶測します。

だけど、上記四人のうち、誰が一番幸せかと思えば、私は一番最初の人だと思うんです。

「親切な若者だなぁ。私も彼を見習おう!」
と思えるのが一番幸せなのかな、と。


う~んとね。
それから、ふと思ったのは、「依存(甘え)」と「信頼」は似てるけどまったく別のもんだよなってこと。

おととい実家に帰って、祖母の状態が、想像していた以上にずっと早く深刻になってしまったことにちょっと驚いたんですが。
その重圧をほぼ一人で担っている母は、割合とテンとしていました。しんどそうではありましたけどね。

でも、あの状態で、母がそこそこ元気にしてられるのはなぜなのかな~……と思ってたんですよ。

で、多分、たぶん、多分、たぶん……ですが。
多分、母は、「思いこんでない」から、悲壮感がないんじゃないかと思います。

介護問題は大変なのは間違いないことですが、それで悲壮感を漂わせている人は、
「誰も私の大変さをわかってくれない」
「私がやらなきゃ誰もやってくれない」
「他の人たちは、私と同じようにはできない」
という思い込みにとらわれているように思います。

そうなると本人はものすごく辛いし、見てる方も、けっこうしんどい。

母の場合は、「大変なときは、娘か嫁に振ろう~~~~~っと」と考えられる強さがあるのかも。

振られる立場の人間として言えば、「どうせあなたたちはやってくれないんでしょう?」という態度をされると、手伝おうという気持ちになかなかなれないところはあるかもしれません。
でも、「ちょっと大変やから手助けしてくれる?」と言われれば、「大変そうやな。手伝うわ」と答えられるやないですか。

多分、「どうせやってくれないんでしょう?」という態度は、「甘え」なんじゃないかと思うんですよ。
勝手な決めつけで失礼なことを言っても許されるだろうという「甘え」。
そして、そういう怨みつらみ的態度になるのは、「本来なら頼んでもいいはずなんだけど」という思いがあるからでしょう。それは甘えじゃないかもしれないけれど、甘えに通じる考えだと思う。

「ちょっと手伝ってくれる?」と頼めるのは、「信頼」なのかもしれません。
信頼されれば、応えようとするのも人間ですもんね。

そして、今更どうしようもないことですが、祖母の今の苦しみは、多分誰をも信頼していないからなのじゃないかと思います。
甘えと信頼は良く似ていて間違えそうになるけれど。
祖母は近しい人間に甘えてはいるけれど、信頼はしていないんでしょうね。
だから、少し状況が変わると、苦しくて愚痴でいっぱいになってしまうんでしょう。



つまり、なんていうのか、私が言いたいのはこういうことなんです。

誰も私の大変さをわかってくれない」という状況は、誰かを信頼することで、ダイナミックに変化する
かもしれない



……ってこと。

モームの小説を読むと、それを思うんですよ。
「いやいや、よくよく自分の心を観察すれば、犠牲的愛や永遠の愛らしきものも存在するじゃん?」という気付き一つで、「真実の愛なんてない」という状況は一変すんじゃないのかなぁ?……って。

スパイと話がそれちゃったな(^^ゞ

ま、そういうことです。

人生において「気付き」ってのは、かなり重要なんじゃないかなと。
そんなことを思いましたよ。
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「傷つく」と「気づく」は近い?;南里

コメントの表題に
結論は出ていません
そうじゃないかな~
というレベルです

おはようございます

自分にとって
愛とは、とてもハードな志の顕現なんです
「常にその人や事物に対して捨て身になれること」
ということでくくってしまいます

愛という言葉に対しては
ほんとに不器用だな~と
自分のことを思っています

「大変だ」「しんどい」が
人の「生老病死」の四苦に向けられ
共に生きる時間を惜しむように過ごすのであれば
それは、もう立派な志なんだと思いました
そして、誠心誠意、捨て身になれるというのが
愛の力なのかと思います

「愛があれば大丈夫」
「信じるものは救われる」

この二つを織り込んだお便りを
「スパイ」という表題から
出てきたことに感嘆した瞬間でした
”若旦那~、なんり、深感恩

愛と信頼

多分、それは一対なんじゃないかと思います。

相手が自分を信頼してくれなくても、無償の愛情を注げる……という方ももちろんおられるとは思いますが、私は無理(^^ゞ

その人に対して捨て身になれるかどうかというのはそのときにならないとよくわかりませんが、そういう「捨て身の愛情」というものも、日ごろの人間関係から生まれてくるものだと思うんですよね。

また、「捨て身の愛情」などという大げさなものではなくても、友人が困っているとき、自分の身が傷つくことがあっても親身になろうと思えるかどうかというのも、日ごろの人間関係が大きく関係してくると思います。

「彼女が背負っている荷物の半分でも持たせてもらいたい」
と思えるような友人はとても大切だし、そういう友達関係を築けるのならそれは多分すごく幸せなことですよね。

と、上手には言えませんが、敬意を持ち得る人と交流できる人生で幸せだなと思ってます。
プロフィール

のりちゃん1968

Author:のりちゃん1968
大阪生まれ、大阪育ちのおばちゃんです。
40の大台を超えて、ますますおばちゃんに磨きがかかってます。

HP:http://www.norichan.jp/
Mail:norichan★norichan.jp
(★を@に替えてください)

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