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ダイナミズムの傍観者として

なぜだかわかりません。
「ダイナミズム」という言葉を使うとき、高いところから低いところへと流れる滝を連想しちゃうんですよ。
高度があればあるほど、水流は激しく、壺に叩きつけられる水滴は勢いを増します。

この高低差が、「ダイナミズム」なのだと。

辞書などをひいても、ネットで検索しても、そのような意味はどこにも説明されていないのにね。
なぜか、私の「ダイナミズム」は、異次元へ飛び込む際の距離感や、座標の高低差を示してるんですよね。
もちろん、重力のある地球上では、移動量が大きければ運動量も増しますから、完全に間違っているというわけではないのでしょうが……。

ちなみにですが。
上の文章を書くために、「次元」の定義を確認しなおすべく、WIKIを見てみたら、すごくわかりやすい説明がされてました。
直感的に言えば、ある空間内で特定の場所や物を唯一指ししめすのに、どれだけの変数があれば十分か、ということである。たとえば、地球は3次元的な物体であるが、表面だけを考えれば、緯度・経度で位置が指定できるので2次元空間であるとも言える。しかし、人との待ち合わせのときには建物の階数や時間を指定する必要があるため、この観点からは我々は4次元空間に生きているとも言える。

文章は多少固いですが、言わんとしてることはごく簡単。

今の私がどこにいるかを人に伝えるために、どれだけの情報が必要かということですね。

今私は、
・自宅の(経○度、緯○度)
・二階の(高さ○メートル)
・○時○分という時間
に存在している。

つまり、経度・緯度・高さ・時間。
この4つの情報がなければ、「私」のいる場所は示せない……と考えれば、私たちの生きているこの空間は、四次元なのだ、と。

私たちの住む世界は三次元だと習いましたよね?
でも、違ったようです。

時間の概念の中を生きるもの。
私たち、命を生きる者の住む世界は、間違いなく、四次元なのだと思います。

それでは死の世界は、何次元なのでしょうね?
なんとなく……ですが、生者の世界から、時間の概念がなくなったような、そんな三次元を想像しているのですが。
もしかしたら、なんらかの情報が付加された、五次元、六次元の世界かもしれません。

今回、私は祖母の死に立ちあうことはありませんでした。
私だけでなく、誰も見ないうちに、多分祖母自身、眠っているうちに生命の炎が尽きたのです。
ですから、祖母の旅立ちがどのようなものだったかはわかりません。
想像するに、静かなものだったろうと思います。
祖母は享年96歳。
充分、いや充分すぎると言って間違いないほど生きました。

でも、その自然な成り行きが。
当然の結末が、なぜこんなに「ダイナミック」なのだろうかと不思議に思えてならないのです。

毎日の散歩の中で、私は隣の駅まで歩きます。
3歩進めば、玄関を出、50歩歩けば町内を区切る道路を渡りきります。
隣の駅まで何歩だか数えたことはありませんが、ごくごく当然のように、私は隣の駅にたどり着きます。
そこには不自然もなければ、何かの違和感もありません。

人間の人生も多分、同じことのはずです。
しかし、「死」という終着点に辿りついた人が、周囲に与えるこのなんとも言い難いプレッシャーは、なんなんでしょうね(^^ゞ

誤解して欲しくないのですが、悲しんでるわけじゃないのです。
祖母は96歳まで生きました。これ以上何を望むというのでしょう?

晩年の祖母は、自分の頭で考えることもほぼなくなり、体のあちこちに苦しいところを抱え、最後の数ヶ月は、
「しんどい、痛い、もう楽になりたい」
とばかり言っていましたから、今は心から、
「やっと楽になれたなぁ」
と思っています。

幸い我が家は、うちの旦那も、義妹も、協力できることがあれば協力したいという人たちなので、両親の負担は大きいなりに、「誰も協力してくれない」などという不満からくる精神的な負担は、さほど大きくなかったと思います。
それにしても、そろそろ限界なんじゃないかと感じることもありましたから、両親についても、
「やっと解放されたなぁ」
と思います。

それなのに、その思いとは別に、何かしら処理できない感情もあるのです。
多分、純粋な「喪失感」もあるとは思うのですが……。

「生と死のダイナミズム」
という言葉が、頭にポカリと浮かんだまま、違和感なく存在し続けています。

まさに、私は今、そのダイナミズムに圧倒されているのでしょう。

祖母の場合、生の世界から、少しずつ放物線を描くように、死の世界に近づき、最後に
「えいっ!」
と軽く跳躍しただけで、あちらの世界へ行きましたから、そのダイナミズムは決して大きなものではないはずです。
それでもこれだけの壮大さがあるわけですよ。

いやはや。
生命とは、なんと力強いものなのか。
何かこう、呆れてしまうのです。

さて、今日はお通夜です。
両親に尋ねてみたところ、
「葬儀会社が全部やってくれてるんで、な~んもやることない」
と言うので、私はお通夜から参加します。

「顔を見ちゃうと、いらん感情が湧いてきそうなんで、対面は最後だけにさせてもらえないかな」
とお願いして、死者のそばにいるのは最小限にさせてもらってます。

区切りがついたら、またすぐに元の生活に戻れるとは思うのですが(^^ゞ
それまではちぃと落ち着きませんね。
気分的に。

でもそれも、あと少しです。
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生の奇跡:南里

個人的に想像できずに
悩んでしまうのですが
「外側のない空間
 次の一秒のない時間」
というのが、宇宙の終焉だそうです
これを発表した人がいますが
優れたイマジネーションに感動しました

おはようございます♪

むしろ「あの世」ってシンプルで
「無」という0次元の世界なのかもしれないなあって
思ったんですね

存在を特定する必要がないような感じ
タテ・ヨコ・タカサ・時間
宇宙全体に広がる雰囲気のような感じが
死後の世界かなぁなんて思いました

だから
のん様がおっしゃるように
ダイナミックなんだと・・・
4つあったものが0『無』に帰する
一つでも残りゃいいんでしょうけど
存在がなくなる訳なんですもんね

でも偉人なんかは
「精神は生き続ける」
といいますので
この精神ってのが
物的な存在を必要としない0次元に存在するのかな?

「0次元に存在する」
なんか名言ぽい・・・

宇宙にも終わりがあることが
物理学の仮説であるんですね
宇宙の始まりの「ビッグバン」
の逆の
宇宙の終わりはなんと言うのかは知りません

終わりがあるということが
いつも
私を楽にしてくれています
覚悟ができるからなのか
人の死に直面したとき
自分もいつか
死を迎え、多くの人を残して逝ってしまうが
その多くの人もまた、多くの人と別れる時が来る

だから、生ある今、できる時に、できるだけ
多くの人に関わって
できるだけ大きな喜びを創造したいと思うんです
当たり前のように過ぎる毎日にも
「当たり前」をつくるのに
どれだけ多くの人の汗を感じられるか

生の奇跡を味わう機会が深くなることを
思います

そしてありがとう♪
のん様のお祖母さんから、名言をいただきました
「楽になるとは、死ぬこと」
ならば
逆に
死んだら楽になれるんだから
生きている今、努力や苦労は惜しまない
それよりも
その努力や苦労によってもたらされた
幸福や喜びを
生あるからこその
「生の奇跡」として
人と人とを共に、賞賛しながら
いずれ訪れる死を迎えたいと思います♪

”若旦那~♪、なんり、深感恩

おお!!

0次元に存在ですか!?
かっこいい!!

無事告別式も終わりまして、久しぶりに会う親族も集まり、明るく送りだすことができました。

死の世界については、どんな風に空想してみても、やっぱり何か違う気がしますね。
でもだからこそ、「楽しみ」たあるんだと思います(#^.^#)

まだまだ先はありますが、楽しみにしときましょう!!
プロフィール

のりちゃん1968

Author:のりちゃん1968
大阪生まれ、大阪育ちのおばちゃんです。
40の大台を超えて、ますますおばちゃんに磨きがかかってます。

HP:http://www.norichan.jp/
Mail:norichan★norichan.jp
(★を@に替えてください)

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