神の座
現地についたのは12時前でした。
桜井へ行く道っていくつか渋滞している場所がありまして、結構時間がかかったんざますのよ。
でも都合のよいことに、空が明るくなってきました。
やっぱ暗いのと明るいのでは、想像力の働き具合が違いますもんね(笑)
受付は思ったほど混んでませんでした。
200人ぐらいが並んでたかな。
一度に500人ずつ現場に入って説明を聞くという形式で説明会は実施されているようでしたから、次の説明にこの200人全員が入場できそうな感じです。
1時間ぐらい待たされるかと思ってたんで、良かった。
この発掘に興味を持っている人ならご存知でしょうが、この現場は三輪山の近くにあります。

奈良は盆地ですから、山自体は珍しいものではありません。
でも、三輪山や畝傍、そして二上山といった、何か印象を残す山も存在するのは確か。
星の王子様に出てくる「象を飲みこんだうわばみ」にそっくりな畝傍山や、よりそう二つの山が美しい二上山に比べると、三輪山は単調です。
でも、この山独特の威容はいったいなぜなんでしょうね。
私のような地理をよくわかってない人間でも、
「三輪山はあれやんな?」
とすぐに指させるような雰囲気があります。
さてさて、思惑通り、すぐに現地に入れてもらうことができ、説明会が始まりました。
今回見学できたのは、建物Cと建物Dと呼ばれるものの柱跡でした。

発掘で発見されたのは、そのほかに建物Aと建物Bなどがあり、
「建物の周りに柵がめぐらされている!!」
と騒がれているのは、建物Bのようです。
この地は、三輪山の尾根づたいにある場所です。
標高74.3メートルと言いますから、思いのほか高台ですね。
でも古代の奈良は、かなりの部分が海の底だったと考えられますから、この纒向遺跡あたりでも、そんなには高台と呼べなかったでしょう。
ちなみに、初代天皇の都であったはずの橿原は、海の底だったか役に立たない泥地だったと言う学者さんもいてはるようで(^^ゞ
まぁそれはともかく、広さは東西150メートル、南北は上ツ道を北として100メートルと言ったところだそうです。
建築時期は3~4世紀だろうと考えられています。
理由は、造成地から発掘される土器。

纒向遺跡で出土する土器のうち、10に3つは、奈良県外で作られた土器だそうなんですが、その製作時期がだいたい3~4世紀ごろ。
そんなことから、造成の時期も、同時期だろうと考えられるんだそうですよ。
今回見学できた、建物Cと建物D。
大きさはDの方がかなりでかい。
床の高さは地上2メートルと言いますから、いわゆる「高床式」ですね。
Cの方は、神社などでよく見られる、棟持柱が壁よりも外にある様式の建物だと考えられることから、神祭りに関係する建物だと考えられているようです。
ただ、この時代はまだ、神は祠に祀られるものではなく外で祀られるものであった……もしくはまだ、縄文式に山や磐座などをご神体としていたか……ということから、建物Cは、神祭りに使われる宝物をしまうものだったのではないかと言う説があるとか。
Dはだいたい4間×4間の建物だったろうと考えられるそうで、この時代としては、国内最大の居館跡になるそうな。
一辺31センチの太い柱と、一辺15センチの細い柱が交互に並び立ち、太い方の柱は屋根まで貫き通されていて、短い柱は床を支えるためにのみ存在しているのではないかと考えられています。
この遺跡最大の特徴は、すべての建物の軸線が揃えられていることなんだそうです。
今まで、このような建て方をされたのは、明日香時代以降だと考えられてたのが、3~4世紀にもあったというのはかなりでかい発見みたい。
また、纒向石塚古墳は前方後円墳で、ここから古墳時代が始まったと言える……と。
どうでしょう。
わくわくしません?
この地は「初めてづくし」ってことです。
とすると、3~4世紀、ここに、画期的な発想をする民族が居を構えた可能性が高いってことになるんじゃないでしょうか。
さて、その人々は誰だったんでしょうね?
ここ纒向遺跡には弥生時代の遺跡がほとんど見つかっていないと、WIKIには書かれています。
とすると、縄文人がここで長らく繁栄をつづけたという想像も、「アリ」ですよね。
このそばに祠がありました。
社名はなかったけど、鳥居横の石には、天照御魂大神と書かれています。

ここで注意したいのは、天照大神と、天照御魂大神は、別物と考える人が多いってこと。
天照御魂大神は……明言はできませんが、饒速日命だとか、火火出見尊だとか言われてますよね。
饒速日命ならば物部氏に関係の深い神様です。
そばに物部氏の神社である石上神宮もありますしね、纒向遺跡と物部氏の関係がまったくないとも言えません。
ただこの神社の創建がいつなのかはわかりません。
家に帰って調べると、googleマップでは、春日神社となっていました。
資料にある、奈良県桜井市巻野内278の春日神社でしょう。
ご祭神は、天兒屋根命・經津主命・武甕槌命・姫神。
いわゆる春日大神ですね。
……としたら、境内にあった天照御魂大神とはなんなんでしょうね?
創立年代もよくわからないので、なんとも言えませんが……。
藤原氏は物部氏の後裔という説もあるしなぁ。
ちょい、気になる(^^ゞ
なんにせよ、ここは間違いなく、古の神を祀る人々が居住した場所であると思います。
どんな神様だったのでしょうね。
旦那曰く、
「東西の軸線を山の方にず~っと伸ばしていくと、桧原神社にぶち当たるんちゃうか」
だそうなんですが……。
桧原神社って、倭姫が天照大神を奉祭しながら伊勢へと移動する途上の神社、所謂元伊勢の出発地点ですからねぇ。
倭姫と、やまととととびももそ姫の関係とか考えちゃうしなぁ。
で、そこに「天照御魂神」が関係してくるとしたら……。
ムーとかでときどき話題になってるようなトンデモ説も考えちゃうわ(^^ゞ
やっぱ机の上で資料繰ってるよりも、現地でいろいろ見る方が、想像力が刺激されますね。
だからどうなるわけでもないんだけどさ(^^ゞ
まだ今日まで説明会ですよ。
間に合う方はぜひぜひ!!
桜井へ行く道っていくつか渋滞している場所がありまして、結構時間がかかったんざますのよ。
でも都合のよいことに、空が明るくなってきました。
やっぱ暗いのと明るいのでは、想像力の働き具合が違いますもんね(笑)
受付は思ったほど混んでませんでした。
200人ぐらいが並んでたかな。
一度に500人ずつ現場に入って説明を聞くという形式で説明会は実施されているようでしたから、次の説明にこの200人全員が入場できそうな感じです。
1時間ぐらい待たされるかと思ってたんで、良かった。
この発掘に興味を持っている人ならご存知でしょうが、この現場は三輪山の近くにあります。

奈良は盆地ですから、山自体は珍しいものではありません。
でも、三輪山や畝傍、そして二上山といった、何か印象を残す山も存在するのは確か。
星の王子様に出てくる「象を飲みこんだうわばみ」にそっくりな畝傍山や、よりそう二つの山が美しい二上山に比べると、三輪山は単調です。
でも、この山独特の威容はいったいなぜなんでしょうね。
私のような地理をよくわかってない人間でも、
「三輪山はあれやんな?」
とすぐに指させるような雰囲気があります。
さてさて、思惑通り、すぐに現地に入れてもらうことができ、説明会が始まりました。
今回見学できたのは、建物Cと建物Dと呼ばれるものの柱跡でした。

発掘で発見されたのは、そのほかに建物Aと建物Bなどがあり、
「建物の周りに柵がめぐらされている!!」
と騒がれているのは、建物Bのようです。
この地は、三輪山の尾根づたいにある場所です。
標高74.3メートルと言いますから、思いのほか高台ですね。
でも古代の奈良は、かなりの部分が海の底だったと考えられますから、この纒向遺跡あたりでも、そんなには高台と呼べなかったでしょう。
ちなみに、初代天皇の都であったはずの橿原は、海の底だったか役に立たない泥地だったと言う学者さんもいてはるようで(^^ゞ
まぁそれはともかく、広さは東西150メートル、南北は上ツ道を北として100メートルと言ったところだそうです。
建築時期は3~4世紀だろうと考えられています。
理由は、造成地から発掘される土器。

纒向遺跡で出土する土器のうち、10に3つは、奈良県外で作られた土器だそうなんですが、その製作時期がだいたい3~4世紀ごろ。
そんなことから、造成の時期も、同時期だろうと考えられるんだそうですよ。
今回見学できた、建物Cと建物D。
大きさはDの方がかなりでかい。
床の高さは地上2メートルと言いますから、いわゆる「高床式」ですね。
Cの方は、神社などでよく見られる、棟持柱が壁よりも外にある様式の建物だと考えられることから、神祭りに関係する建物だと考えられているようです。
ただ、この時代はまだ、神は祠に祀られるものではなく外で祀られるものであった……もしくはまだ、縄文式に山や磐座などをご神体としていたか……ということから、建物Cは、神祭りに使われる宝物をしまうものだったのではないかと言う説があるとか。
Dはだいたい4間×4間の建物だったろうと考えられるそうで、この時代としては、国内最大の居館跡になるそうな。
一辺31センチの太い柱と、一辺15センチの細い柱が交互に並び立ち、太い方の柱は屋根まで貫き通されていて、短い柱は床を支えるためにのみ存在しているのではないかと考えられています。
この遺跡最大の特徴は、すべての建物の軸線が揃えられていることなんだそうです。
今まで、このような建て方をされたのは、明日香時代以降だと考えられてたのが、3~4世紀にもあったというのはかなりでかい発見みたい。
また、纒向石塚古墳は前方後円墳で、ここから古墳時代が始まったと言える……と。
どうでしょう。
わくわくしません?
この地は「初めてづくし」ってことです。
とすると、3~4世紀、ここに、画期的な発想をする民族が居を構えた可能性が高いってことになるんじゃないでしょうか。
さて、その人々は誰だったんでしょうね?
ここ纒向遺跡には弥生時代の遺跡がほとんど見つかっていないと、WIKIには書かれています。
とすると、縄文人がここで長らく繁栄をつづけたという想像も、「アリ」ですよね。
このそばに祠がありました。
社名はなかったけど、鳥居横の石には、天照御魂大神と書かれています。

ここで注意したいのは、天照大神と、天照御魂大神は、別物と考える人が多いってこと。
天照御魂大神は……明言はできませんが、饒速日命だとか、火火出見尊だとか言われてますよね。
饒速日命ならば物部氏に関係の深い神様です。
そばに物部氏の神社である石上神宮もありますしね、纒向遺跡と物部氏の関係がまったくないとも言えません。
ただこの神社の創建がいつなのかはわかりません。
家に帰って調べると、googleマップでは、春日神社となっていました。
資料にある、奈良県桜井市巻野内278の春日神社でしょう。
ご祭神は、天兒屋根命・經津主命・武甕槌命・姫神。
いわゆる春日大神ですね。
……としたら、境内にあった天照御魂大神とはなんなんでしょうね?
創立年代もよくわからないので、なんとも言えませんが……。
藤原氏は物部氏の後裔という説もあるしなぁ。
ちょい、気になる(^^ゞ
なんにせよ、ここは間違いなく、古の神を祀る人々が居住した場所であると思います。
どんな神様だったのでしょうね。
旦那曰く、
「東西の軸線を山の方にず~っと伸ばしていくと、桧原神社にぶち当たるんちゃうか」
だそうなんですが……。
桧原神社って、倭姫が天照大神を奉祭しながら伊勢へと移動する途上の神社、所謂元伊勢の出発地点ですからねぇ。
倭姫と、やまととととびももそ姫の関係とか考えちゃうしなぁ。
で、そこに「天照御魂神」が関係してくるとしたら……。
ムーとかでときどき話題になってるようなトンデモ説も考えちゃうわ(^^ゞ
やっぱ机の上で資料繰ってるよりも、現地でいろいろ見る方が、想像力が刺激されますね。
だからどうなるわけでもないんだけどさ(^^ゞ
まだ今日まで説明会ですよ。
間に合う方はぜひぜひ!!
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